むーびい

セットリストはどこだ!

「セットリスト(曲目リスト)がないと困るんだよ!」スコセッシが叫ぶ。「曲によってカメラアングルを決めてるんだから」

ローリング・ストーンズのライヴ映画『ローリング・ストーンズ シャイン・ア・アライト』(08)は、冒頭、なかなか演奏を映してくれない。監督のマーティン・スコセッシとストーンズとの折衝をややコミカルに追う。(スコセッシが役者として自分自身を、本当にコミカルに演じる。)ストーンズは何食わぬ顔でスコセッシの要請をはねのける。彼らにとってみれば、スコセッシの要求がきっとぴんと来ないんだろうな。無数のレパートリーの中から、今日はどれでいくかなんてのは、その日の気分と調子で決まるものなんだろう。

「セットリストが来た!」ほっとするスコセッシ。その次の瞬間、演奏が始まる! 一曲目は「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」! (もっとも、このセットリストをめぐるやり取りはやや脚色されているらしいが、これに近い事態は実際に展開されていたらしい。)

名作『タクシー・ドライバー』や『レイジング・ブル』、最近ではデカプリオと組んだ『ギャング・オブ・ニューヨーク』や『アビエイター』で知られるマーティン・スコセッシがストーンズのライヴ映像を撮る! それだけで興奮するじゃないか。しかも、会場となったのは、近頃のストーンズのツアーの恒例となったスタジアムではない。小さなホールだ。これがよかった。観客が手を伸ばせば触れられるところにストーンズがいる。実際、ミックやキース、ロンらのフロントマンたちは、時折観客にタッチする。
客席と同じ目線にカメラがある。ストーンズのステージではおなじみの前に張りだした部分を歩くミックをアップで追う。それだけで絵になる。素晴らしい。キースもロンも、かっこいいが、やはり絵になるのはミックだ。「スタート・ミー・アップ」のとき(だったかと思うが)、親指を一本立てただけのその立ち姿のとにかく様になること。

ストーンズの演奏を追ったドキュメンタリー映画は他にもある。1982年に『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥギャザー』は、ストーンズのスタジアム・ツアーを追った映画だが、ツアーの規模の大きさをひたすら強調する演出は、今回の対極と言えるだろう。ちなみにスコセッシの今回のテーマは「親密さ」。どうも、メンバー同士の親密さの意味らしいが、会場の親密さももちろん十分表現されていた。
ゴダールの『ワン・プラス・ワン』(68)は、「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景だけを、政治的アジテーション映像と絡ませた、いかにもゴダールらしいコラージュ。このストーンズの録音の場面は、いくつも興味深い要素がある。親密さという点では、スコセッシの今回の映画に近いかもしれない。ステージ上ではクレイジーなミック・ジャガーがスタジオでは非常に知性的なのだ。意外。ギタリストのキースがベースを持って、ベースラインを作っていく。リズム・ラインが大事な楽曲なのは確かだが、本来のベーシストのビル・ワイマンが横でパーカッションを叩いているだけなのをみると、バンドの力関係が伺える。力関係といえば、結成時のリーダーのブライアン・ジョーンズが、隅の方で、意見を言うこともなくひたすらギターをならすだけなのも印象的だ。その直後ブライアンはストーンズを追いだされ、謎の死を遂げるのは有名な話。

さて、今回のライヴ映画だが、時折、昔のインタビュー映像がさしはさまれる。キースとロン、二人のギタリストに対して、「どっちが優秀なギタリストだと思う?」と聞くインタビュアー。ロンは「そりゃぼくだよ」と答える。キースはそれを聞いて「奴ならそう言うと思ったよ。でも、本当はおれたちは二人とも下手クソなのさ。でも、二人そろうと最高なんだよ」
下手クソだとは思わないけど、いいコメントだ。いや、四人がそろうと、とにかく最高なんだよ。

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三隅研次に剣は必要なかった。

必要があって、この夏は、三隅研次の映画ばかり見直していた。至福である。この映像美。この陰影。ああ、幸せな瞬間。

この夏、ラピュタ阿佐ヶ谷では、「京都ものがたり」と題された特集が組まれ、そこでは二本の三隅作品がプログラムに組み込まれていた。私がこの特集のことを知ったときには、そのひとつ、若尾文子主演の『処女が見た』の上演は終わっていたのだが、もう一本、『古都憂愁 姉いもうと』はかろうじて見ることができた。京都の老舗の料亭の看板を背負った姉妹の話。姉が妹の婚約者を略奪する形でかけ落ちするという、ある意味スキャンダラスな物語展開の背後には、丁寧な古都のたたずまいの描写が常にあり、そこに、また、食器や食材の一つ一つ、仕上がりつつある料理の一品一品が細かく映し出される。その手際は、もう、ひたすら感嘆するしかない。その細部にわたるこだわりの中で、藤村志保演じる姉と若柳菊の妹との確執と和解が巧みに描き出される。特に藤村志保の演技は、私が見た限りでは、彼女のベストだ。

15年位前に、テレビ東京で、シネマスコープの左右を切り取ったテレビ放映で見たことはあったのだが、改めてワイドなシネマスコープで見直してみると、画面のこだわりが隅から隅へといきわたっているのがひしひしと伝わる。

しかし、地味な話であるのも確かだ。よくぞこんな映画が作れたものである。座頭市と眠狂四郎という、シリーズもののヒット作を擁していた大映の余裕か。そうではない。

シリーズものを擁しながらも、はっきり言って衰退期に差し掛かっていた大映という映画会社の興行体制の中で(この映画の4年後に大映は倒産する)、この映画が増村保造監督『妻二人』(若尾文子主演に加え、岡田茉莉子が松竹から呼ばれて共演した)とかけあわされ、さらに同じ三隅作品を増村作品の組み合わせが、この年の後半、それぞれの『なみだ川』(これもまったく同じ藤村志保、若柳菊主演)と『華岡青洲の妻』で再度実現することを見ても、大映がこの女性路線にひとつの起死回生の道を探っていたことがうかがえる。残念ながら、会社の命運を賭けていたといわれる後者の組み合わせですら興行的には失敗する。映画界の衰退は止めるべくもなかったのだ。

しかし、衰退期にこそ見せたこの美しさは、きわめて特筆すべき現象であるように思うのだ。当時興行的にはあだ花でしかなかったような作品を掘り出して崇め奉るのは、後世の無責任かもしれない。しかし、それにしてもこの美しさは、見過ごせない。そして、これこそが、三隅映画の本質のひとつだ。

確かに一般には、三隅は、市川雷蔵の剣三部作や眠狂四郎、勝新の座頭市で見られる、剣へのフェティシズムに近いこだわりで知られる。それは、本当に美しい。しかし、同じディテールへのこだわりが、チャンバラがまったく登場しないこうした作品群にも存分に発揮されるのを見るとき、剣は、三隅にとって、ひとつの手段でしかなかったことがわかる。

三隅が手がけた最後のシリーズが『子連れ狼』であり、この映画が、マカロニ・ウェスタン以後のハリウッド映画に大きな影響を与えたのは映画史的には有名な話のようだ(たとえば蓮実重彦も指摘している)。それは主にそのスプラッタ的な展開ゆえなのだろう。しかし、そこに引っかかってしまうとこのシリーズの真の美しさを見誤ってしまう。この残酷な映画群の中にあっても、三隅は、たとえば大五郎が何気なく見せるけなげな表情を掬い取り、風景に溶け込む親子の姿をきっちりと描く。その美しさは、まさに「あらゆるものが音と映像を介して響きあっている一篇のフィルムにあっては、ある細部が思いもかけず輝きわたる瞬間に、その輝きが全篇に及ぶしかないもの」(蓮実重彦の三隅論より)なのである。

とにかく、この映画のDVD 化を切望します!

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世界を横断しましょ。

『アクロス・ザ・ユニバース』(2007

ジュリー・テイマー監督。現在公開中。でも、もう少しで東京では終わってしまいそう。もう少し長くやればいいのに。

テイマーは日本では、ミュージカル、『ライオン・キング』の演出家として知られている演出家である(いや、知られては…ないか)。他にも映画『タイタス』や『フリーダ』を監督している。現在のアメリカ演劇界にあって、随一の鬼才といっていいんじゃないだろうか。基本的に資質はアバンギャルドなのに、エンタテイメントの世界でも成功している。それは、間違いなくすごいことだ。

で、『アクロス・ザ・ユニバース』。タイトルからわかる人はすぐにわかると思うが、ビートルズの曲名だ。で、これは、全編ビートルズの曲をベースにしたミュージカル。60年代アメリカを舞台にした「ボーイ・ミーツ・ガール」系の物語。一見、テイマーの資質に合わない感じを受けるが、基本的に極めてシンプルなラブ・ストーリィの中に、「これは盛り込みすぎだろう」というくらいに社会批判を盛り込み、映像的な実験をし、(これが一番重要なことだが)音楽で遊ぶ。

ビートルズでミュージカルなんてけしからん!という向きもあろう。しかし、そのビートルズが主演していた映画はどれも、自分たちの曲をベースにしたミュージカルであったことを思い出そう。そこに、リチャード・レスターという監督の遊び感覚に満ちた、きわめて実験的なテイストが加わり、極上のエンタテイメントに仕上がっていた。それと同じことをやっている。ただ、そこにビートルズがいないだけ。代わりに、ビートルズの曲を、巧みに解釈して歌う、別の俳優たちがいる。

しかも、映画全編に、お前らどこまでオタクなんだ!と突っ込みを入れたくなるような、ビートルズ・トリビアがいっぱい盛り込まれている。(パンフレットには、ご丁寧にも、それがリスト・アップされている。)

ちなみに、そのパンフには書いていなかった点で気がついたことがひとつ。主人公がリバプール出身で、アメリカにわたり、ニューヨークに落ち着くという展開、そして、イギリスにガールフレンドがありながら、アメリカで別の女性と恋に落ちるといういきさつは、ジョン・レノンをなぞっているんだと思う。いやファンにはあまりに自明なので、いまさらここで指摘するまでもないことだけどさ。

あと、たぶん、この映画、ビートルズ映画のうち、『イエロー・サブマリン』というアニメに一番インスパイアされているようにも思った。そもそもこのアニメ、良くぞ作ったというほどナンセンス感覚に満ち、逸脱に逸脱を重ね、遊びに遊びを上乗せするような映画だった。その感覚が、『アクロス・ザ・ユニバース』の随所随所に見て取れたのは、思わずニンマリだ。

ちなみに、テイマーは若いときに日本に滞在し、淡路島で文楽の修行をし、インドネシアにも3年滞在して、自分の劇団を率いて各地を回っている。それが『ライオン・キング』をはじめとする彼女の作品群に色濃く反映されているのは、これも知る人ぞ知る、有名な話。

ただ西洋の演劇人が東洋の演劇をまねて作品を作ろうとするとき、そこに帝国主義的な搾取を訴える声が必ず起こる。伝統を知らない西洋人がうわべだけを掠め取っただけの猿真似をしていることへの非難の声が上がる。われわれは、そう主張するに足る伝統を背負い込んでしまっている。

テイマーは、ただ、少なくとも、伝統を掠め取るようなことはしていない。伝統に根ざした姿勢を一貫して主張しているように思う。それは、この映画のように、ビートルズという、これもひとつの伝統といっていい存在に向き合った場合にも、共通している。

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マジック・アワーの市川崑の姿に涙する

ほとんど読者もいないブログですが、それにしても、またもや、ずいぶん更新に間が開いてしまいました。理由。忙しかったから。それだけです。

スケジュールにぽかっと空きができたので、三谷幸喜監督の最新作『ザ・マジック・アワー』を見てきた。いつもながらの三谷ワールド。巧みな話の運び方に、2時間を越える長尺も、少しも飽きさせない。

しかし、これは、やはり、感慨が深い映画でもある。全編が、ある意味市川崑へのオマージュになっているからだ。エンド・ロールの最初に、「市川崑監督の思い出に捧ぐ」と出る。そして、劇中映画の撮影シーンに市川崑が監督役として登場していて、その劇中映画というのが、明らかに市川監督の『黒い十人の女』のパロディ。(『黒い101人の女』というタイトルらしい…。しかも、その主演が、ある意味晩年の市川映画を支えていたといっていい中井喜一…)そして、エンド・ロールが、あの、われわれが金田一シリーズで見慣れた、画面全体に縦横に自己主張する明朝体のクレジットなんだね。

この映画が市川崑の出演作としての遺作だという話は聞いて知っていたのだけれど、ここまで明らかなオマージュになっているとは思わなかった。

最近、キネマ旬報から出たシネアストと銘打ったシリーズのムック本でその名も『市川崑』という追悼本が出て、そこで三谷幸喜が追悼のエッセイを寄せている。市川崑の人柄がよく伝わる好エッセイだが、そこでもマジック・アワーのことについて触れてある。驚いたことに、劇中の撮影シーンで市川監督の周りをにいた撮影現場のスタッフ役をやったのは、本当の市川組のスタッフ連だったという。三谷は、周りのスタッフが非常に緊張していたと書く。それはそうだろうなあ。ある意味映画史の一部を作ってきた人たちをエキストラとして使うんだもの。緊張するなと言う方が無理だ。しかし、それゆえに、あのシーンは、単なるパロディを越えた、偉大な映画人の仕事に対する真摯なオマージュになったとも言えるだろう。

さて、三谷と市川の間では、金田一モノを一本三谷の脚本で、という取り決めができていたらしい。三谷はそれをすでに完成させていたのだが、市川の訃報を聞いて、「消去」してしまったらしい。三谷は「もう一度書けといわれれば、書けますけどね」とオチをつけているが。

それにしても、このタッグは、見てみたかったなと思う。半分くらい、それはそれで実現したら失敗に終わったんじゃないかなあ、などと思わないでもないのだが、一方で、途方もない傑作に仕上がった可能性もあったはず。その可能性が消えてしまったことは、本当に残念だ。

映画史には(そして、あらゆる芸術史には)、もちろん、この手の、実現しなかったコラボレーションが多くある。天才は、その、実現できなかった仕事すらも、一人歩きさせてしまう。そう、それは、受け手の想像力に許された、せめてもの慰めなんだよ。

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あなたはどこ?

映画の題名です。2003年に山形国際ドキュメンタリー映画際で上映された作品。なぜか(なぜかは言えないけど←大した理由じゃないんだけどね)見る機会に恵まれた。こんな作品があったなんて!

とにかく新鮮なドキュメンタリーだった。

インドの伝統的な影絵劇の人形師たちの現在を淡々と追うドキュメンタリー。「淡々と」としか言いようがない。監督のR・V・ラマニが自らカメラを持ち、老いた人形師たちに直接インタビューする。われわれが普段見慣れたドキュメンタリーとは全然異なり、全く加工されないまま映し出される。ナレーションもない。現地語のため、英語の字幕がつき、さらに日本語の字幕がかぶさる。ほかの字幕はない。人形の説明とか、操作法とか、背景となっている『ラーマーヤナ』の情報とか、われわれが期待してしまう、一切の情報はここからは得られない。もちろん、編集はされているが、編集、というよりは、フィルムをつなげただけ、という印象だ。

しかし、それでも、伝わる。

けた外れの芸能だ。ある人形師の言葉。「7時から始めて12時まで、お客さんにもよるが少なくとも10時まではやる」と。すごいなあ。しかし、10時で終わるか12時で終わるかって、結構大きな差だと思うのだけど。あるいは「ふだんは三日でやるところを今晩は一晩でやるよ」とか。アバウトなのかおおらかなのか。

尋ねた先で、「○○さんは?」と聞くと、家族から「死んだよ」との答えが。何度となくそういう場面に出くわす。「彼に会いに来たのになあ」とインタビュワー。そのやり取りがあまりに淡々としているので見過ごしてしまうが、要は伝統が途絶えつつあるということだ。

14年間の(ラーマーヤナの)物語を何十年も語ってきたが、ラーマーヤナは時代に合わない、今は同じネタだけど別路線でやっているという。別路線がどういう路線なのか、説明はされない。「人形師はもはや尊敬されない。昔はどこの街にいっても手厚くもてなされた。今では邪魔者扱いだ」と。テレビやビデオの普及で、もうこの商売が成り立たないことはわかっていた、と。

終末近く、ある老人が嘆く。「ラーマーヤナって何?と聞かれる。影絵芝居だよ、と答える。影絵芝居って何?って聞かれる。国中がこのすぐれた芸術を忘れてしまった」。

こうしたことが何の解説もなく、ほとんどぶっきら棒に映し出される。

最後の場面は、ダセラ祭り。どういう祭なのかはよくわからなかったのだけど、各地に散らばった人形師たちが集まってくるのは確からしい。以前にインタビューを受けた顔が再集合するわけだ。化粧をしながら(演じ手は見えないはずなのに)、「影絵劇は○○(地名。正確な名は聞き逃した)が起源なんだ」というと、別の人物が「いや、××から○○に伝わったんだ」と言い張る。要は起源ははっきりしないということなんだろう。この映画、当然、どっちの言い分が正しいかを追求することは、しない。

その祭の場で、監督のラマニ、は集まった人形師たちに、これまで撮りためたフィルムをモニターに映して流す。それを見て、涙ぐむ初老の人形師がいた。そこに流れている歌は、あるいは映像は彼にとってどういう意味を持っていたのだろう。それもわからない。

全153分(!)は、そんな感じで、突然終わる。学問的には、あるいは民俗学的には、本当はもっと追求してほしい!とか、整理してほしい!という欲求に駆られるようなところだけど、作品としてはこれで十分だ。2時間半。全く飽きなかった。いわゆるドキュメンタリーとして、これがいいのかどうかわからない。でも、すごい作品だ。

実は、学生と二人で突っ込みを入れながら見たのだけれど、そういういい加減な鑑賞で十分楽しめる。

作品が作品だけに、商業ベースでの一般公開やソフト化は難しいらしい。でも、きちんとした企画をした上での上映会なら、可能性がありそう。

http://www.yidff.jp/2003/cat037/03c045.html

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追悼 市川崑

昨晩行ってきたポリスの再結成コンサートのことも書きたいのだけれど、やはり、この話題からだよね、このブログの路線からしたら。

前々回のブログで触れたばかりの市川崑監督が亡くなりました。92歳。合掌。タイミングよすぎて、びっくり。

本当は彼には生きていてもらってもう何本かでも映画を撮ってもらいたかったところだけれど、でも、今となっては、そんなこと言っても仕方ない。安らかにお眠りくださいと願うよりない。

私の年代はバリバリ角川映画世代だから、良くも悪くも市川崑というとどうしても金田一シリーズの監督のイメージで見てしまう。もちろん金田一シリーズは名作『東京オリンピック』以降の彼の代表作だから、間違った見方ではない。でも、これも前に書いたけれど、市川監督の世界がこの金田一モノのイメージだけで固定されてしまうのは、あんまりだ。とにかく幅広いジャンルと格闘して、そして目覚しい成果を挙げているのだから。

とにかく映像美の作家だと私は思っている。どの作品でもそれを味わうことは出来るが、ぴか一は谷崎原作の『細雪』(1983)かな。冒頭の桜の美しさ、建物の美しさ、陰影の美しさ、そして人物たちの和服姿の美しさ。見ていて惚れ惚れする。

よく指摘されていることだけど(今朝のニュースでもコメントで触れられていたし)記録映画『東京オリンピック』(1965)を、開発のために解体されるビルの映像から始める奇抜な発想。この奇抜さもたまらない。

全前回も書いたが、テーマや題材にこだわりをあまり持たず、手当たりしだいと思えるくらいの軽さであらゆるジャンルに取り組んだのも市川崑のすごいところだ。先々週BSで放映していた『トッポ・ジージョのボタン戦争』(1967)なんて、ほんとにあのトッポ・ジージョ人形を使って人形劇の映画を演出してしまったんだから。名匠と呼ばれる監督でここまでやった人を私は知らない。

市川監督がアニメーター出身だったってことは、これももう繰り返し語られた有名な話だけれど、それが彼の画作りにどういう形で活かされているのかが、2000年に作られた『新選組』という作品を見るとすごくよくわかる。これは黒鉄ヒロシ原作の漫画を切り取って、静止画のダンボール人形みたいなのを作ってこれを画面の中で動かして撮影したという、人形劇ともアニメとも付かない作品。ダンボールの人物それ自体がアニメのように動き出すことはないが、それが画面の中で巧みに配置され、照明を当てられ、陰影をつけられると、これがもう、芸術としか言いようのない見事な画となる。市川演出の手の内を明かしてくれるという意味でも、もっと評価されていい作品だ。こういう作品を晩年に作ってしまうバイタリティ。

どれか一本を、といわれると、迷ってしまうけど、あえて言えば前にもブログで触れた『ぼんち』(1960)かな。市川雷蔵が本当にやりたかったネタ。雷蔵という素材の良さを活かした名匠はいっぱいいるが、気弱だけど意地悪く、したたかな一面も持つ、船場の商人のぼんぼんなんて役どころは、たぶん、市川崑にしか描けなかったろう。

最後の最後まで第一線にいて、最後の最後まで代表作を作り続けた。もう彼の新しい作品を見ることは出来ないが、彼の偉業を振り返ることは出来る。これを機会にもっとみんな市川崑を見よう。そしてその世界の深さに頭を垂れよ!

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コンとカネト

今、映画監督の新藤兼人と市川崑について調べている。二人とも90歳を越えたいまでも現役として仕事を続けている。ひたすら感服するのみだ。

先日、NHKハイビジョンで、ハイビジョン特集「新藤兼人95歳 人生との格闘果てず」ってのをやってた(1月28日)。95歳にしてなお新作に取り組む日々のドキュメンタリー。白内障で片目が利かないらしい。しかも、足腰がほとんど立たなくなっている。それでも映画を撮る。しかも、全編ロケの新作を。

いや、実際に映像で見ても信じられない光景だった。真夏のロケって。昨年夏って、記録的な猛暑だったでしょ? それでも、映画、撮る? 95歳が? うーん。

市川だって、新藤に次ぐご老体だ。それでも一昨年、自ら旧作『犬神家の一族』をリメイクしたのは記憶に新しい。

おいおい、である。

考えてみれば対照的な二人、である。

市川は、とにかく作品の幅がひたすら広い。これは前にも書いたけど。われわれの世代だと、70年代後半の金田一耕介シリーズの印象が強いが、文芸大作も堅実にこなすし、ユーモア路線もいける。アニメーター出身ってこともあって、一番最初のキャリアは戦争中の人形劇映画『娘道成寺』だったりする。ある世代には大ヒットした記録映画『東京オリンピック』(65年)が印象的だったりするのだろうな。15年位前にはキャッチーな『黒い十人の女』(61年)が大々的に再評価されたことおあったっけ。どんなジャンルでも堅実に仕事ができる、職人でありながら、映像への徹底したこだわりが、どの作品にも見て取れる。酔わせる陰影と色彩の使い手だと思う。

一方の新藤は、作品数は多いが、テーマ的には一貫している。大手の資本に拠らない、独立プロを基盤で自由な映画作りを追究できたというのが大きいのだろけど。社会派路線がひとつの大きな柱となっているのは、独立プロで活躍する最大のゆえんなのだろうが、実は、新藤のもう一つの柱として、人間の生きる能力の根源を「性」に求めた作品群があるのを忘れてはならないだろう。90歳過ぎてもこのテーマで作品が取れてしまうのが、本当にすごい。ていうかエロ爺? もちろんこれはほめ言葉。

返す返す、対照的な二人だが、もちろん、接点はある。脚本家として新藤は何本か市川作品にかかわっている。あと、共通点としては、徹底した平和主義者だということ。新藤の映画界への最大の貢献のひとつに、戦後の早い段階で反戦映画に取り組んだということがあるが、市川もそれは同じである。新藤の原水爆へのこだわりは広島出身者としては当然なのかもしれないが、『原爆の子』(52)や『第五福竜丸』(59)など、今見てもまったく色あせない反戦映画だ。市川にも代表作『ビルマの竪琴』(56,85)が有名だが、大岡昇平原作の『野火』なんていう、大手資本の大映で撮ったとは思えない徹底的な実験的な反戦映画もある。『ビルマ』の原作へのほれ込みようは、この映画を撮るために所属会社を移籍したというエピソードが物語っている。

現在、日本映画界最高齢のこの二人について調べることになったのは、まったくの偶然。それぞれ別の仕事の中でのこと。でも、この偶然にはちょっと感謝している。当たり前だが、調べれば調べるほど面白いのだ。

この冬、ずっと読んでいるのは、『市川崑の映画たち』という、94年に出たロングインタビュー。600ページにも及ぶ。これは、至福である。もちろん、鑑賞した映画のところを重点的に読むという読み方だけど、見てない映画も、「ああ、見てみたい」と思わせる本である。

願わくば100歳になっても映画を撮ってもらいたいな。周りは大変だろうけど。そのくらいのわがままをしてもいいくらい、映画界に貢献した二人だよ。

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山中貞雄より長生きしてる自分はどうだい?

今年を総括してみる。自分的に。何が一番大きかったか。このブログ的話題に限定してみると…いちばんに来るのは、山中貞雄を観たってことかな。初めて。今まで見てこなかった自分を恥じる。

『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(1935)。29歳で夭折した山中の25歳の作品。おいおい。25歳。なのにこの傑作はどういうことだい? 丹下左膳なのにコメディ。軽くて明るくて、しかもホロリと来て。

29歳でこの才能が戦地に散らねばならなかったとは。彼も無念だったろう。しかし、映画好きの多くの日本人も無念に思っている。

この監督の現存する作品は三本しかない。シネマレビューの書き込みにも書いたけど、日本は本当に国家予算を投じてこの映画作家の散失してしまったフィルムを探し出すべきだろう。それだけの価値はある。間違いない。

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追悼・田中徳三

映画監督田中徳三が亡くなった。12月20日のことらしい。82歳。

旧大映の黄金時代を支えた職人の一人。溝口健二の助監督もしていた。私がいちばん敬愛する三隅研次の、ある意味最大の理解者であり、ライバルでもあった。三隅の凝りまくった映像美に比していささか硬すぎる画面構成は、逆にこの人の映画作りの姿勢を表していたのだと思う。ひたすら堅実なつくりを得意としていた。冒険はない代わり、安心して見られる。

田中は勝新太郎の出世作のひとつ『悪名』(1961-)シリーズを世に送り出したことで知られるが、市川雷蔵や勝新のヒットシリーズも数多く監督している。たいていは一度軌道に乗ったシリーズを安定的に継承していく役どころだった。いわば堅実な中継ぎエースといったところ。『兵隊やくざ』(1965-)は、実は勝新のシリーズものでは私がいちばん好きなものだけど、これも第一作を増村保造が撮った後、シリーズの大半を引き継いだのが田中だった。

中継ぎと書いたけど、もちろん先発としての役割も果たしている。『悪名』シリーズは最初からほとんど田中が撮っているし(当時の大映としてはきわめて異例だ)、実は『眠狂四郎』も第一作を撮ったのは田中である。ただし、『悪名』が最初から安定路線だったのに対し、田中の狂四郎第一作は、どうもちぐはぐな印象。本人もそれは自覚していたらしい。ヒットシリーズでも一作めが失敗作ってのが、当時の映画作りを象徴しているかもしれない。普通は一作目でコケたら二作目はないもの、というのが常識だからね。はじめから雷蔵でシリーズものを、という路線が敷かれていたんだろう。

シリーズものの堅実な仕事ぶりも評価すべきポイントだけど、単発ものにも光るものはある。

私が見た限りで一番の珍品は『大殺陣 雄呂血』(1966)。戦前の阪東妻三郎の『雄呂血』のリメイク。前半の緻密なドラマと対照的に、後半が雷蔵が一人で延々と立ち回りを演じて何百人と斬り倒す。ありえない展開に開いた口がふさがらなかったけど、不思議と爽快な作品。

同じ1966年には『脂のしたたり』という、サスペンスタッチの作品を撮っていて、これは主演の田宮二郎の味をよく引き出していた作品だった。富士真奈美が、今の姿とは想像がつかない妖艶な女性を演じていて、田中監督がこういう女性の色気を描けるんだなあと感心したものだった。

大映倒産後は、他の監督と同じくテレビシリーズに舞台を移して活躍。残念ながら、私はそこまではフォローできていない。

昨年BS で放映していた溝口健二のドキュメンタリーでも出演していて、まだまだ元気だなあ、と感心したものだった。もう少し長生きしてほしかった。本当に。

合掌。

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てねしい!

先月、仕事でちびまる子ちゃんのおじいちゃんの声をやっている青野武さんにインタビューした。青野さんは、若い頃、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』に、スタンリー役で出演したらしい。ちょうどこのときに、作者のウィリアムズが来日してきて、稽古場にやってきて、青野さんに「君はマーロン・ブランド(初演でこの役を演じた)よりすばらしいよ!」とか何とか言ったらしい。それってすごい話だよね。

というわけで(どういうわけで?)、今月は(っても5分前に先月になってしまった…)舞台も映画も、自分的にテネシー・ウィリアムズ特集、って感じだった。テネシー原作の映画ばかり見てた。マーロン・ブランド&ヴィヴィアン・リーの『欲望』はもちろん、ポール・ニューマン監督の『ガラスの動物園』、そのポール・ニューマンが主演の『渇いた太陽』(原作は『青春の甘き鳥』)、ポール・ニューマンとリズ・テイラーの『熱いトタン屋根の猫』、やはりリズ・テイラーと元夫のリチャード・バートン主演の『夕なぎ』。それに篠井英介主演の舞台の『欲望』と続く。

正直、若い頃、テネシーには結構ハマっていてその反動でしばらく彼の作品を受け付けない体質になっていた。『ガラスの動物園』なんて、一度どっぷりハマってしまった後は虫唾が走るくらい嫌いになった。甘くてたるくて、やめてくれい!って感じだったんだな。

だが、この年になると結構すんなり受け入れられて、自分自身で驚いている。どの作品もそう。『欲望』に感動することなんてもうないだろうな、って思ったけど、篠井の舞台を見て続けてヴィヴィアン・リーを見たら、それなりに作品の深さを再認識できた。

ワシも年取って、それなりに傷や痛みがわかる年になったってことかね。それはそれで複雑な心境だけど。

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形が変わってロボになる

今話題のスピルバーグ製作の映画『トランスフォーマー』の原形が日本発売のロボットおもちゃにあったことは、今ではどこのテレビ番組でもやっている有名な話。

で、当然、それにあわせてアニメも作られていたりする。そのあたり、ワシは全然詳しくないんだけど、もう6、7年前に子供が小さかった頃に、ずいぶんつき合わされて見させられた。

そのシリーズの中に『カーロボット』という一作があって、その中では(主役じゃないけど)新幹線が変形してロボットになってしまうんだね。(これも鉄道アニメ?)さらには、東海道新幹線と上越新幹線と東北新幹線の先頭車両が合体して、さらにひとつの巨大ロボに変形してしまう。

それはそれでかっこいいんだけど、乗客はどうしてるんだろうなあ。いちいち降ろしていたら、戦闘に参加できないよなあ。ああ、考えたら夜も眠れない!(またかよ。)

しかも、この東北新幹線ロボ、ズーズー弁なんだよね。それって東北の人、馬鹿にしてません?

ちなみにおもちゃに連動していた鉄道ロボシリーズってのには、「ヒカリアンシリーズ」ってのものある。これは、電車の先頭部分だけが切り離されてロボになるってパターン。だから、お客は関係ないんだね。切り離された時点で線路上に置き去りで、それはそれでひどい話だとは思うんだけどね。

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座頭のいっつぁんは、自分モドキが海外にいる夢を見たりするのか。

このタイトルのつけ方、実は、このブログでは二度目。どちらも座頭市がらみで。われながらしつこいね。でもこだわったのは、今回紹介する作品がそれこそディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』にかかわるネタだから。

座頭市がどこでディックとつながるんじゃい!と突っ込みを入れたくなる方もおらりょうが、ところがどっこい、風が吹けば桶屋が儲かる式に、たどりにたどっていけば、意外とかんたんに結びついてしまうのだな。

『座頭市』がアメリカでリメイクされている、というのは知る人ぞ知る、歴然たる事実。タイトルは『ブラインド・フューリー』(1989)。主演がルドガー・ハウアー。あの『ブレード・ランナー』でレプリカントをやった人。ハリソン・フォードと対決する、あの悪役。この映画の原作が『電気羊』。ほらつながった。だから何?って、いや、それだけのことなのだけど。

で、『ブラインド・フューリー』、ほんとに座頭市。座頭市シリーズの第17作、『座頭市血煙街道』が原作。で、かなり忠実。以下あらすじ。

「ベトナムの戦場で視力を失い、あちこちを放浪していた男。彼は戦友の息子に会うために久しぶりに故郷に帰る。しかし、再会も束の間、少年は悪の組織に誘拐されてしまい、盲目の男はその救出に赴く。」(Allcinema Online より)

いい意味のB級映画。笑えるし、突っ込みどころ満載だけど、それでも、まじめに座頭市をやろうとしている。当然、仕込み杖を使った殺陣もある。そりゃ、勝新の殺陣ほど美しくはないけどさ。

この映画、単発でこれでおしまいなのだけど、シリーズ化すれば面白かったのになあ。オリジナル座頭市のように二十数作も見たくはないけど、あと3本くらいなら、十分許せる。

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教えて次郎長さん!

『若き日の次郎長・東海の顔役』(1961年)

中村錦之助主演の次郎長モノ。なかなかスピーディでよかった。

マキノ雅弘が次郎長ものを16本もリメイクしていることは、前にも書いた。(http://vanitas.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_9728.html)これもその中の一本。会社の要請とはいえ、一つのネタでこれだけリメイクするってのは、どういう気分なんだろうなあ。

いろいろ調べてみると、マキノのこの次郎長ものとの接点もすごいが、他にもすごいことがある。この映画で法印大五郎という次郎長一家のひとりを演じる田中春男は、実は、この役に並々ならぬこだわりを持っていたようで(出典ウィキペディア)、1952年の東宝版『次郎長三国志』全九部作でも、1963年版の東映版の同作四部作でもこの役を演じている。他にも『清水港に来た男』(1960)、『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』(1955)などがあって、そのどれもマキノ監督というオチがつく。

ところが、今回の『若き日の次郎長』で次郎長を演じている中村錦之助は、これもいろいろな次郎長モノに出ているけど、この人の場合は、出る映画ごとに役柄が違う。『清水港の名物男 遠州森の石松』(1958)では石松を演じているし(やはりマキノ監督)、『勢揃い東海道』(1963)では大前田栄次郎(って誰?)、『任侠東海道』(1958)では桶谷の鬼吉(ともに松田定次監督)、という具合。いくら映画全盛期だからって、この状態ってどうなんだろう。だいたいこのインターバルだよ。10年ぶりのリメイクとかじゃないんだ。当時のお客はどういう感覚で見ていたのだろうか。うーん。考えると夜も眠れない。

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踊る千恵蔵・歌う千恵蔵

『鴛鴦歌合戦』(1939年) 。不思議な作品。1939年製作の、何と時代劇ミュージカル。マキノ雅弘監督。いや、このときはマキノ正博名義だ。(この人はとにかく何度も名前の表記を変えている。)戦時中とは思えない能天気な世界。噂によると、この映画をマキノ正博は28時間で撮り終えたとか終えないとか。ほんとかいな。信じられないくらいダンドリがきちんとしていて、演出としてカンペキ。カメラも宮川一夫。片岡千恵蔵も歌うし、志村喬も歌う! (この人の歌って、『生きる』(1952)のあの暗い歌い方だけじゃなかったんだね!)モノみな歌で終わる。これは、もう、みんな、トゥギィエザアしようぜいって感じだよ(ってどういう感じじゃ?!)。

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社会派座頭市、または座頭市はサヨクの夢を見たりするのか?

勝新太郎が自分の勝プロを立ち上げたのが1967年。決して先見の明があったとかそういうわけでなく、当時は石原裕次郎にしても三船敏郎にしても、みんな自分のプロダクションを抱え、自分のプロデュースで映画を作るのが流行っていた。俳優が目立ちたがり屋だったからそうなったのか。今だとそんな風に思ってしまうけど、それほど単純な話ではない。要は、自分がプロデュースしないと好きな映画は作れないというほど、不自由な状況だったんだな。映画の全盛期と入っても、所詮は所属会社の言いなりだった。スター・プロの隆盛は、映画界が斜陽に差し掛かろうという時期の、俳優側の無意識の(あるいは意識的な?)自己防衛ではないかとも思う。

で、その勝プロ第一回作品が『座頭市牢破り』(1967)。監督は、なんと、社会派山本薩夫だ。言わずと知れた、『白い巨塔』や『戦争と人間』三部作で知られた監督だ。(ちなみに撮影は宮川一夫、脚本の一人に中島丈博もいる。)で、当然の結果として、これはかなり変な座頭市になった。

鈴木瑞穂演じる大原秋穂という侍が、百姓たちに、いかにすれば効率よく収穫があげられるかを説き、団結して横暴なヤクザたちに非暴力で立ち向かうことの重要性を説く。まるで左翼思想の煽動かとも思ってしまうようなやり取りが展開する。これが市に対するいいアンチテーゼになっている。彼の思想は、理屈で説得できないものは斬るしかないという市の姿勢とは正反対。だからこそ、市はその大原に惹かれていく。しかし、その非暴力思想の大原が、最終的に市の剣さばきに救われる。だからと言って、この映画は、市が正しく、大原の理想論が誤りなのだ、という単純な線引きをしない。それは全てのキャラクターにおいてもそう。

善玉と悪玉の区別が容易に行かない世界。評価が分かれるのだろうなあ。愛読している時代劇のレビューサイトでも、この映画はぼろくそ。http://www.geocities.jp/mirror_django/zatoichi/zatoichi16.html

でも、ワシは、これ、結構好きだった。断定を避け、判断を観客に委ねるようなこの姿勢が、ある意味潔いのだ。

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折り返した!

6月に細々と続けてきた座頭市マラソン、ようやく折り返した。一部フライングがあったり、途中で『座頭市関所破り』を見過ごしてしまったりと、個人的にはトラブルがあったけど、ようやく全26作の半分を過ぎた。物好きな話だけど、レビューサイトなどを見ていると、この手のマラソンは、結構な数の人がチャレンジしているらしい。当然だよ。何しろ面白いもの。

幾つか気がついたこと。

①やっぱり宮川一夫はすごい。

古くは溝口健二の諸作品や黒澤の『羅生門』、小津の『浮草』など、超巨匠と組んだ宮川一夫は、座頭市シリーズでも何本かキャメラマンをつとめている。

何がすごいって、宮川だけは、撮影者なのに監督と並んで予告編でクレジットされてるのだ! 予告編だよ。必要最低限の客を呼ぶための情報を提供すればいいはずの予告編でキャメラマンの名前が、しかも監督と併記されるなんて、この人くらいなもんだろうな。

とにかく彼が撮影したものはそれは画面にしまりがある。特筆すべきは第13作目の『座頭市の歌が聞える』。立ち回りをシルエットでとらえる。全体的に、影の作り方が独特の深みのある画面を作っているのだけど、それが、すべて、このシルエットの立ち回りの伏線になっていたと、最後になって気づく。画面が物語を語る、その典型だ。

②意外と井上昭はすごい。

あまり知られていない監督、だと思う。たぶん、巨匠としての評価は受けていない。でも私は大映の末期の遅れてきた才人だと思っている。シリーズでは『座頭市二段斬り』(1965年)だけを担当。前に市川雷蔵の『陸軍中野学校』シリーズを見ていたときに、その最終作、『開戦前夜』(1967)を見て、あれ、何かすごいことしてるぞ、と気になっていた。長らく三隅研次や森一生、市川崑らのもとで助監督として下積みを積んで、ちょうどこの『二段斬り』あたりに一本立ちした。

ところが、これがほとんどデビュー作に近いのに、あきれるほど大胆な映像だ。表情をえぐり取るようなアップ、真上にカメラを据えるかと思うと、極端にローアングルのショットもある。そして何より、テンポがいい。座頭市の居合斬りは、たいていの監督はカメラをフィクスして、長まわしで撮っているのだけど、この監督は手持ちカメラで市を追いかける。この迫力。実は、先の『中野学校開戦前夜』も、この『二段斬り』も、シリーズの中では決して評判がいい作品ではない。でも、私は、この画面の迫力、何としても評価したい! …私だけでしょうか。

実は井上監督、まだご存命。大映がつぶれたあとはテレビに活躍の場を移して、いまだに現役で作品を撮り続けている。私は、そこは全くフォローできていない。そこまで手が回らないのが無念だ。

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小津さんたら。

この女(ひと)だーれだ? 答え。田中絹代。あの田中絹代。それがまあ、男(岡譲二)の背後でピストルを。なんとまあ、はしたない!

知る人ぞ知る小津安二郎監督の『非常線の女』(1933)。サイレント映画でしかも、暗黒街のサスペンス映画(小津安二郎なのに!)。

実は、初めて小津安二郎の映画がこれ。大学生になったばかりのころ京橋のフィルムセンターに足しげく通っていたのだけれど、そのころに見た思い出の一本。私の小津体験は、ほかにも『生まれてはみたけれど』(1932)とか、とにかく戦前のテンポのいいサイレントから始まっているので、戦後のゆったりとした映画は、最初のうちはなかなか面白いとは思えなかったもんでしたよ。

で、この映画。ひたすらスピーディでひたすらかっこいい! 賛否両論のようだけど、私的には、アメリカ映画に染まりきったこの小津安二郎、悪くないです。というか大好きな映画。久しぶりに見たのだけれど、やはり面白かった。

残念ながらこれもDVDになってないんだね。

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必ず最後に勝が勝つ!

前にも書いたけど、現在スカパーの日本映画専門チャンネルと時代劇専門チャンネルにて、勝新太郎没後10年ということで、勝新太郎特集を大々的に展開中なんだね。

で、ワシも、これを機に『座頭市』シリーズを全部最初から見ようと一大決心したわけだ。何度か見たものも含めてね。

ところが、いきなり挫折。いや、見続けることに挫折したわけではなく、4作目まで見たところで、最後の方が見たくなり、全26作中24作目の『新座頭市物語 折れた杖』(1972)にワープしてしまったというわけ。なぜか。これが勝新監督作品だから。何となく、気になって仕方なかったので、前に録ってあったやつをついみてしまったわけですよ。

で、これが、すごかった。以下、例によって私が書き込んだ「みんなのシネマレビュー」と一部重複するけどご容赦を。

勝新太郎って、けっこうアヴァンギャルドの気質を持った映像作家であるらしいってのは、知っていた。(http://channel.slowtrain.org/feature/feature007/index.html参照。)実際勝プロでも勅使河原宏を使って『燃えつきた地図』なんてとんでもない映画を作っていたんだから。勅使河原映画だから、そりゃあ、よくわかんないのですよ。『砂の女』と同じで、安部公房の脚本。でも、こちらの方が飛びぬけてわけわかんなかった。

でも、その気質が『座頭市』で反映されている。それは本当に意外だった。座頭市といえば北野版や勝の89年リメイクも含めて痛快娯楽作――初期の数作はともかく――そう思い込んでいたのだ。でも、シリーズ全作品を見たわけではないので断定は出来ないけど、確信を持って言える。これは、北野版をも含めて一番ぶっとんだ、アブナイ座頭市だ。シリーズの他の作品を包んでいた、どこかユーモラスな雰囲気は全くない。とにかく殺伐とした世界。まるで『北斗の拳』を思わせるような終末的世界なのだな。痴呆の少女がチンピラどもにいたずらされたりなど、衝撃的なシーンもあるのだから。

すごいところはいろいろ他にもある。まず構図。下から上から、至るところにカメラを据える。そしてアップをとにかく多用する。アップが逆に見ているほうの想像力をかき立てる。とにかくびっくりし通し。フォーカスをわざとぼやけさせたり、当然ハンディカム撮影の例のめまいを引き起こしそうな映像なども含まれる。決して見やすい映像ではない。それは、ある意味、大映京都の職人技が支えてきたこれまでの全シリーズの美しく安定した映像のアンチテーゼですらある。それでもこの映像から目が放せない。

自分で築き上げてきたシリーズのイメージを自らのプロデュースで自らの演出で壊してしまう、勝新太郎。頭が下がります。

でも、この作品、版権の都合からか(大映がつぶれたあとに東宝で配給された作品)、まだDVDにはなっていないんだね。ビデオにはなっているらしいから、見つけたら是非みてほしい。アート系の映画が好きな人には特にオススメ。

勝新は、人格的にはとにかく奔放な人だったようで、トラブルも多く、きっと周囲の人は大変だったんじゃないかと思うけど、やはり早死にしすぎたと思う。もう10年長く生きていて、しかも彼にこんなアヴァンギャルド映画を撮らせる度量のあるプロデューサーがいれば、今頃はきっと、世界は北野よりも勝新に驚いていたはずだ。本気でそう思う。

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女座頭市って…

時代劇のキャラでは有名どころはたいてい当たり役といわれる俳優のほかにも何人かチャレンジしているものだ。ここでも書いた、市川雷蔵が当たり役にしていた眠狂四郎だって、雷蔵以前には鶴田浩二がやっていたし、雷蔵が死んだあとには同じ大映で松方弘樹を(確か東映から)借りてきてシリーズの続編を作ったりしている。他にもテレビでは片岡孝夫や、意外な感じがするけど田村正和だってやっている。丹下左膳だって大河内伝次郎が有名だけど、他にも何人も演じた俳優はいるし、旗本退屈男だって水戸黄門だって然りだ。

ところが、座頭市だけは違うんだね。北野武がリメイクするまで、演じたのは勝新太郎だけだった。それも当然。座頭市のキャラを作り出すのに最も貢献したのが、勝新太郎その人だからだ。以下、ウィキペディアからの引用。

「原作者は子母沢寛。子母沢は江戸時代に活躍した房総地方の侠客を取材するべく当地を旅した際に、盲目の侠客座頭の市に興味を覚え、彼について原稿用紙にして十数枚に書き記した。これが座頭市の原作となった訳だが、子母沢は、市についてこの十数枚しか書き記しておらず、現在、巷間に伝えられる座頭市の人となりは、大部分が勝新太郎主演で座頭市の物語が製作された時に作られたものである。また、原作の長ドスを仕込み杖としたのも勝である。」

基本的に勝新太郎のワンアンドオンリーのキャラと言える。映画版、そして自らプロデュースしたテレビ版と、常に彼は座頭市を演じ続けた。だから、北野版だって、それなりにヒットしたけど、「あんなのは座頭市じゃない」って声は、結構聞く。その気持ちもわかる。

勝新版の座頭市シリーズの最大の見所は、座頭市が差別の対象だってことだ。シリーズを通して、「このドめくらめ!」というような罵りの言葉が頻出する。そして、座頭市は、その言葉に対して、歯向かうことはしない。自分はめくらで、しかもヤクザだ、だから差別されても仕方ない。そういう諦めが、常にある。それは、市というキャラの強さでもある。

北野版には、そういう日陰者のイメージがなかった。過激なところはとことん過激になってるだけに、その欠落が目立つ。時代がかつてのような差別的な表現を許さなくなったということなんだと思う。その欠落は、やはり致命的なんじゃないかと思う。北野版、それなりに面白いと思うけど、根本的に、ワシも、やはりこれは、座頭市じゃないなって思ってしまう。

ところで、綾瀬はるか主演で女版座頭市が作られるのだそうだ。複雑。時代劇の歴史上二人しか許されていないこのキャラを、よりによってアイドル女優が演じるなんて。(それ自体、かなり差別的な発言なのはご容赦を!)もしかしたらものすごい面白いものになるかも、という希望は1%くらいは捨てないでおこうと思うけど、それでも、ネガティブにならざるを得ないなあ。

時代劇専門チャンネルでは、勝新の没後10周年ってことで、目下勝新版座頭市を、最初から連続放映している。現在まだ二作目までしか見てないけど、もう涙モノだ。特に一作目は何度も見ているけど、何度見ても飽きないね。勝新がいいのはいうまでもないけど、名匠三隅研次の映像のシャープさ、敵役の天池茂のしぶさ、音楽の伊福部昭の重厚な響き、どれをとっても文句の付け所なし!

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「殯の森」(もがりのもり)を見たのです!

河瀬直美監督。言うまでもなく、カンヌ映画祭グランプリ受賞作。

一部スポーツ新聞などでも報じられていたとおり、NHKのハイビジョン放送が、なんとこの映画を公開前に全編放映してしまったのですね。いや、もちろん、U-Tubeみたいなやりかたではなくて、正規の契約としてですよ、NHKだし。というか、NHKが制作に絡んでいたから出来たこと、らしい。

まあ、そう珍しいパターンでもないか。前にもNHKが大林宣彦監督の『ふたり』を、公開前に放映したことがあったっけ。ただし、こちらは別ヴァージョンで、劇場公開版の半分の時間しかなかったと思う。でも、Wowowとかでもその手の公開の仕方があったように記憶してる。

で、うちがなぜ見られたかって言うと、ハイビジョン契約をしてるからではもちろんなくて、インターネット環境をケーブルに変えたら、オプションとしてケーブルテレビが見られるようになっていて、CS放送やBSハイビジョンやデジタル放送が見られるようになったってわけ。で、結局アナログ受信機で見ているので、ハイビジョンでもなんでもない。きっと河瀬監督は、ハイビジョンできれいな映像で視聴できるならってことで放映を許可したんだろうけど、こんな環境で公開前の映画を見てしまって、申し訳ない気も、ちょっとする。

で、映画はどうだったかって言うと……。いささかわき道から入っていくと、今日の読売の夕刊によると、この映画はカンヌでも、決して評判がよかったわけではないらしいのね。いわゆる下馬評では、全然本命視されていなかったらしい。正直言って、それもわかる。

わかりにくい映画かって言うと、そうでもない。シンプルこの上ない。要は、そのシンプルな直球一本勝負に、受け手が耐え切れるかどうかってことだ。ワシには、ちょっとつらかった。面白かったけど。

ただ、死者を悼む儀式そのものをひたすら追うようなこの目線は、よかったと思う。というか、これを国際舞台の俎上に乗せて、勝負に勝てたことは評価していいのではないかと思う。

で、勢いで、この監督の『沙羅双樹』(しゃらそうじゅ)(2003)を見たのですね。これは、涙が出るくらい、よかった。

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三隅研次・讃①

三隅研次(1921-1975)。知る人ぞ知る(というか、今となっては知ってる人しか知らない)かつての大映のプログラム・ピクチャーを支えた巨匠の一人。

私はこの人の映画が大好きなのね。とにかく美しい映像、どうしてこんなところにカメラ置くかなっていうくらい大胆な構図。作家主義なんかおよそお呼びでなかった時代に(たぶん、あまり意図しないで)作家性を色濃く打ち出すことに成功した人。(というか、当時の大映は、明らかに会社の方針に反して、このように作家性が強い人が何人もいたんだけど。)

春先にBSで三隅の眠狂四郎シリーズをやっていて、それを録ったものを(いや、前にも録ってあったのだけど)改めてこの時期に見直した。三隅が撮ったのは『眠狂四郎勝負』(64)『眠狂四郎炎情剣』(66)『眠狂四郎無頼剣』(67)の三本。三本が三本とも、とにかくいいんだ。堪能しました。タイトルバックから始まって、どのカットも惚れ惚れするような美しさ。小道具や風俗の描写、屏風や襖絵。人物の往来。そうしたアイテムの一つ一つが職人芸的に画面に立ち上がる。もちろん、三隅を支えた大映京都撮影所の職人芸のなせる業なんだけど、それを統括しきる三隅は、やはりスゴイ!

一般に、一番知られているのは『無頼剣』の、月夜の屋根の上での天池茂との円月殺法同士の対決の美しさ(とにかくスタイリッシュ!)だけど、今回見直して、『炎情剣』の、冬枯れの寺院の境内での決戦場面も、負けないくらい美しいことを発見。

特筆すべきは、この人が撮ると、もともと端正な市川雷蔵の顔に、さらに陰影の深みが加わるのだな。神業です。(ただし、年代順に見ていくと、だんだん、雷蔵の顔がやつれていくのがわかる。だから映像の美しさがきわまった無頼剣での雷蔵は、本当に泪なくては見られないのだ。)

三隅についてはまだまだ書きたいことがたくさんあります。だから今回はパート1ってことで。

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金田一さん、事件ですよ!

私らの世代で、金田一耕輔と言ったら、間違いなく市川崑・石坂浩二のコンビを思い浮かべる。夕べ知人と飲んでいて、この連休で市川崑の金田一シリーズを見たら、その退廃美に圧倒されたって話を聞いた。いや、市川崑、ここ数ヶ月、ちょっとハマっていたので、ついつい嬉しくなって食いついてしまいました。

私、正直、この監督、大して知りもしないで馬鹿にしてたのね。私らの世代だと、金田一のほかは、大作志向、大女優を贅沢に使って贅沢の限りをつくす絢爛たるバブリーな映画、ってイメージがありましてね。

そのイメージが変わったのは、大映時代の彼の作品を見たとき。もちろん、後追いです。緻密な映像とさりげないユーモア。改めてその世界の深さに感服したのでした。

さらに追い討ちをかけて、昨年から日本映画専門チャンネルで市川崑の連続特集を組んでくれて、これが、また、いいのだな。特に、昭和20年代、30年代のユーモア作品が、群を抜いてすばらしい。まだまだ進行中なので、今後が本当に楽しみ。

特集の全てを見たわけでないけど、私が見た範囲で特に目に止まったのは現時点では以下の作品。

『天晴れ一番手柄 青春銭形平次』(1953) とにかく珍品。岡引になったばかりで、右も左もわからないひたすらおどおどしている平次。二枚目長谷川一夫には絶対できない平次。一番笑ったのは、誰もが知りたがっていたあのことを、堂々とやって見せたこと。つまり、平次は投げた小銭をどうしているのだろうかってあの有名な疑問。で、この平次は拾うのですよ。こそこそと。これが見られただけで大満足!

『ぼんち』(1960) 市川雷蔵主演、山崎豊子原作。雷蔵を使った市川崑作品としてはこれがダントツでいい。雷蔵-崑のコンビでは、世間的には『炎上』(1958)の方が評価されてるみたいだけど(あれはあれでいいけど)、私にはこちらのユーモラスな(かつ残酷な)展開がハマった。

『股旅』(1973) 股旅物の木枯し紋次郎のテレビシリーズを世に送り出した市川箟がこれを作るかねえ、ってくらい、徹底的に股旅人生を茶化した作品。笑える。脚本は谷川俊太郎。

『足に触った女』(1952) とにかくスピーディー。ひたすらユーモラス。この展開が、後に有名な『黒い十人の女』(1961)につながっていくのだろうな。越地吹雪がコメディエンヌとしての才能もある人だったのだと感心しました。

えらそうに書いたけど、私もまだまだ有名な作品を見落としてる。もっともっと発掘すれば面白い作品がいっぱいありそう。

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マイ・プライベート・アイダホ (1991)

リヴァー・フェニックスのファンって、いたなあ、昔。でも、もう死んでしまって15年くらいになるんだね。

この映画、成長したリヴァーが、今度は相手役をキアヌ・リーヴスに変えて、かつて『スタンド・バイ・ミー』(1986)で展開していた旅をもう一度――より精神世界を深くさまようような形で――再現したような印象。ストリートで(男相手に)身体を売ることで暮らしを立てている若者たちの苦悩。その描き方があまりにディープすぎて、これはホントにアメリカ映画か?って思ってしまう。

シェイクスピア原作ってことで一部知られているけどシェイクスピアの『ヘンリー四世』じゃなくて、それをもとにして作られた『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』をベースにしてる。シェイクスピアから選ばれたシーンやせりふが、全部このウェルズの映画に準じてるんだ。全編ウェルズへのオマージュ。ウェルズの方の原題に使われた「真夜中の鐘をよく聞いたものだった」ってせりふがしっかり使われてるのは、若いころウェルズにはまっていた身としては、涙もの。ガス・ヴァン・サント監督、結構オタクです。ホントは、それだけで嬉しくなってしまうところなんだけど、この映画は、それをベースにしっかりと、青春の痛みがきっちりと描かれているのが味噌だね。

(シネフィル・イマジカで鑑賞)

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テス

『テス』(1979) ロマン・ポランスキー監督 ナスターシャ・キンスキー主演。

いまさらって感じの後追いで鑑賞。当時から、ナタキン(と呼んでた記憶が)の人間離れした美しさはちょっと話題になっていたもんでした。ってか、一部、アイドル的人気もあったような。ナタキンをアイドルとして崇めてる友人が実際いたし。

冒頭いきなり、「シャロン・テートに捧ぐ」ですよ。チャールズ・マンソンに殺された、ポランスキーの妻。妊娠していたのに惨殺された事件。カルト集団の犯罪という意味でも、犯罪史上に残る事件。

ポランスキー自身のその後の運命も、奇奇怪怪。レイプ事件を引き起こして有罪判決を受けたり。そもそもなんでそんな犯罪者なのに映画を撮り続けられたのかな。

そうしたことを重ね合わせてみると、何だか美貌に生まれついたために悲劇的な結末を迎える主人公テスの物語は、不思議と説得力を持ってしまうのよ。

美しくても不幸になる。それで安心してしまうのは、冴えない風貌に生まれた庶民根性? 

全然関係ないけど、『ケス』って映画もあるね。ケン・ローチ監督で。これもいい映画だった。

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らいおん大帝

昨日、ちょっと、「ライオンキング」と手塚治虫の「ジャングル大帝」の関係のことを書いたので、ついでに思い出したこと。

「花とアリス」ってありますわな。岩井俊二の映画で。あの中で、主人公たちが通う高校の演劇部が「ジャングル大帝」を上演するんだけど、そのスタイルが、舞台版の「ライオンキング」のパクリなのね。「ジャングル大帝」をパクった(と言われている)「ライオンキング」をパクって「ジャングル大帝」を上演してたわけ。

この場面の発見をしたとき、心ひそかにほくそ笑んでしまいました。

私の「花とアリス」レビューは、例によってみんなのシネマレビューをご参照ください。

http://www.jtnews.jp/

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日本か!

スパイダーマン、テレビでやっていたので、何となくパート1&2立て続けに見てしまった。パート2は初見。スパイダーマンが、自分のやってることが誰にも認められないし、私生活でも好きな人からも「あなたのことがよくわからない」なんて感じのことを言われてしまってスパイダーマンになるのが嫌になってしまうという展開。どこかで聞いたような……あ、バーマンだ!マスクを放置してしまって世の中の犯罪から目をそらそうとするところまで似てる。
これは、剽窃か???? いやあ、ジャングル大帝とライオンキングのケースはかなり怪しかったと思うけど、これは……偶然なんだろうなあ。

で、タイトル。わからないと思うので自分で種明かし。タカ&トシの「欧米か!」の逆を書いたわけです…

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次郎長さん、獄死?

4月にハマっていたのが、マキノ雅弘監督『次郎長三国志』九部作(1952-4)。去年の連休に時代劇専門チャンネルでやっていたのを録りだめて、今頃見た。

九部作ってのがすごいね。スターウォーズ並みだ。いや、スターウォーズだって六作しか作られてない。

しかし、何がすごいって、このシリーズ、未完なのよ。九作目の完結編の前編で終わってしまう。そんなんありかい? そういうことがありえたのが、あの時代なんだなあ。

幾つか気づいたこと。

・最初のうちはとにかく軽い。二作目なんてミュージカルみたい。でも、だんだんシリアスな話になる。凶状持ちの次郎長一家が、病の次郎長の妻を抱えながら旅路をさまよう第六部。これは圧巻。

・森繁久彌の森の石松は、本当にすごい。コミカルな演技がとにかくおかしい。有名な「江戸っ子だって?」「神田の生まれよ」「寿司食いねえ」のやりとりはないんだけど(それも驚き!)でも、ひたすら笑わせる。でも、石松、ご存知のとおり、最後は圧巻の死を迎える。映画の中では使い古された、カーニバルという儀式の中での死。知ってる限りの森繁のベストアクトだと思う。

・監督助手が岡本喜八(クレジットでは喜八郎)だった。

・志村喬や加東大介、千秋実という、黒澤の、『七人の侍』(1954)組が出ている。どうも撮影の合間に出ていたとしか思えない。というか、Wikipediaによると、加東大介は、『七人の侍』に出るために、このシリーズでは途中で殺されてしまうことになったらしい。

・次郎長モノの浪曲で一世を風靡した広沢虎造が出ていて、彼の歌がナレーションの役割を果たしている。

・マキノ雅弘はずいぶん次郎長者をリメイクしているらしい。この『三国志』自体もセルフ・リメイクしてる。他にも次郎長モノはずいぶんあるんだね。同じ物語を何回も作るって、これは、会社からの要請もあったんだろうけど、どういう心境だったんだろう。そのあたり、マキノ自伝に書いてあるのかな。つい勢いで、その一本、『若き日の次郎長 東海の顔役』(中村錦之助主演)をヤフオクで買ってしまった…(現時点では未見)

で、映画本編。九作目まで引っ張られるくらいだから、面白いよ。DVD出てないみたい。出しても、売れないかな…

細かいレビューは、みんなのシネマレビューってサイトにアップしました。『次郎長三国志』で検索してください。

http://www.jtnews.jp/

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