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2008年9月

三隅研次に剣は必要なかった。

必要があって、この夏は、三隅研次の映画ばかり見直していた。至福である。この映像美。この陰影。ああ、幸せな瞬間。

この夏、ラピュタ阿佐ヶ谷では、「京都ものがたり」と題された特集が組まれ、そこでは二本の三隅作品がプログラムに組み込まれていた。私がこの特集のことを知ったときには、そのひとつ、若尾文子主演の『処女が見た』の上演は終わっていたのだが、もう一本、『古都憂愁 姉いもうと』はかろうじて見ることができた。京都の老舗の料亭の看板を背負った姉妹の話。姉が妹の婚約者を略奪する形でかけ落ちするという、ある意味スキャンダラスな物語展開の背後には、丁寧な古都のたたずまいの描写が常にあり、そこに、また、食器や食材の一つ一つ、仕上がりつつある料理の一品一品が細かく映し出される。その手際は、もう、ひたすら感嘆するしかない。その細部にわたるこだわりの中で、藤村志保演じる姉と若柳菊の妹との確執と和解が巧みに描き出される。特に藤村志保の演技は、私が見た限りでは、彼女のベストだ。

15年位前に、テレビ東京で、シネマスコープの左右を切り取ったテレビ放映で見たことはあったのだが、改めてワイドなシネマスコープで見直してみると、画面のこだわりが隅から隅へといきわたっているのがひしひしと伝わる。

しかし、地味な話であるのも確かだ。よくぞこんな映画が作れたものである。座頭市と眠狂四郎という、シリーズもののヒット作を擁していた大映の余裕か。そうではない。

シリーズものを擁しながらも、はっきり言って衰退期に差し掛かっていた大映という映画会社の興行体制の中で(この映画の4年後に大映は倒産する)、この映画が増村保造監督『妻二人』(若尾文子主演に加え、岡田茉莉子が松竹から呼ばれて共演した)とかけあわされ、さらに同じ三隅作品を増村作品の組み合わせが、この年の後半、それぞれの『なみだ川』(これもまったく同じ藤村志保、若柳菊主演)と『華岡青洲の妻』で再度実現することを見ても、大映がこの女性路線にひとつの起死回生の道を探っていたことがうかがえる。残念ながら、会社の命運を賭けていたといわれる後者の組み合わせですら興行的には失敗する。映画界の衰退は止めるべくもなかったのだ。

しかし、衰退期にこそ見せたこの美しさは、きわめて特筆すべき現象であるように思うのだ。当時興行的にはあだ花でしかなかったような作品を掘り出して崇め奉るのは、後世の無責任かもしれない。しかし、それにしてもこの美しさは、見過ごせない。そして、これこそが、三隅映画の本質のひとつだ。

確かに一般には、三隅は、市川雷蔵の剣三部作や眠狂四郎、勝新の座頭市で見られる、剣へのフェティシズムに近いこだわりで知られる。それは、本当に美しい。しかし、同じディテールへのこだわりが、チャンバラがまったく登場しないこうした作品群にも存分に発揮されるのを見るとき、剣は、三隅にとって、ひとつの手段でしかなかったことがわかる。

三隅が手がけた最後のシリーズが『子連れ狼』であり、この映画が、マカロニ・ウェスタン以後のハリウッド映画に大きな影響を与えたのは映画史的には有名な話のようだ(たとえば蓮実重彦も指摘している)。それは主にそのスプラッタ的な展開ゆえなのだろう。しかし、そこに引っかかってしまうとこのシリーズの真の美しさを見誤ってしまう。この残酷な映画群の中にあっても、三隅は、たとえば大五郎が何気なく見せるけなげな表情を掬い取り、風景に溶け込む親子の姿をきっちりと描く。その美しさは、まさに「あらゆるものが音と映像を介して響きあっている一篇のフィルムにあっては、ある細部が思いもかけず輝きわたる瞬間に、その輝きが全篇に及ぶしかないもの」(蓮実重彦の三隅論より)なのである。

とにかく、この映画のDVD 化を切望します!

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世界を横断しましょ。

『アクロス・ザ・ユニバース』(2007

ジュリー・テイマー監督。現在公開中。でも、もう少しで東京では終わってしまいそう。もう少し長くやればいいのに。

テイマーは日本では、ミュージカル、『ライオン・キング』の演出家として知られている演出家である(いや、知られては…ないか)。他にも映画『タイタス』や『フリーダ』を監督している。現在のアメリカ演劇界にあって、随一の鬼才といっていいんじゃないだろうか。基本的に資質はアバンギャルドなのに、エンタテイメントの世界でも成功している。それは、間違いなくすごいことだ。

で、『アクロス・ザ・ユニバース』。タイトルからわかる人はすぐにわかると思うが、ビートルズの曲名だ。で、これは、全編ビートルズの曲をベースにしたミュージカル。60年代アメリカを舞台にした「ボーイ・ミーツ・ガール」系の物語。一見、テイマーの資質に合わない感じを受けるが、基本的に極めてシンプルなラブ・ストーリィの中に、「これは盛り込みすぎだろう」というくらいに社会批判を盛り込み、映像的な実験をし、(これが一番重要なことだが)音楽で遊ぶ。

ビートルズでミュージカルなんてけしからん!という向きもあろう。しかし、そのビートルズが主演していた映画はどれも、自分たちの曲をベースにしたミュージカルであったことを思い出そう。そこに、リチャード・レスターという監督の遊び感覚に満ちた、きわめて実験的なテイストが加わり、極上のエンタテイメントに仕上がっていた。それと同じことをやっている。ただ、そこにビートルズがいないだけ。代わりに、ビートルズの曲を、巧みに解釈して歌う、別の俳優たちがいる。

しかも、映画全編に、お前らどこまでオタクなんだ!と突っ込みを入れたくなるような、ビートルズ・トリビアがいっぱい盛り込まれている。(パンフレットには、ご丁寧にも、それがリスト・アップされている。)

ちなみに、そのパンフには書いていなかった点で気がついたことがひとつ。主人公がリバプール出身で、アメリカにわたり、ニューヨークに落ち着くという展開、そして、イギリスにガールフレンドがありながら、アメリカで別の女性と恋に落ちるといういきさつは、ジョン・レノンをなぞっているんだと思う。いやファンにはあまりに自明なので、いまさらここで指摘するまでもないことだけどさ。

あと、たぶん、この映画、ビートルズ映画のうち、『イエロー・サブマリン』というアニメに一番インスパイアされているようにも思った。そもそもこのアニメ、良くぞ作ったというほどナンセンス感覚に満ち、逸脱に逸脱を重ね、遊びに遊びを上乗せするような映画だった。その感覚が、『アクロス・ザ・ユニバース』の随所随所に見て取れたのは、思わずニンマリだ。

ちなみに、テイマーは若いときに日本に滞在し、淡路島で文楽の修行をし、インドネシアにも3年滞在して、自分の劇団を率いて各地を回っている。それが『ライオン・キング』をはじめとする彼女の作品群に色濃く反映されているのは、これも知る人ぞ知る、有名な話。

ただ西洋の演劇人が東洋の演劇をまねて作品を作ろうとするとき、そこに帝国主義的な搾取を訴える声が必ず起こる。伝統を知らない西洋人がうわべだけを掠め取っただけの猿真似をしていることへの非難の声が上がる。われわれは、そう主張するに足る伝統を背負い込んでしまっている。

テイマーは、ただ、少なくとも、伝統を掠め取るようなことはしていない。伝統に根ざした姿勢を一貫して主張しているように思う。それは、この映画のように、ビートルズという、これもひとつの伝統といっていい存在に向き合った場合にも、共通している。

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